この記事を書いた人
2002年より 世田谷区のナニフラスタジオでフラを始めました。
2010年「フラオニエ・フラフェスティバル」アウアナ・カヒコ・音楽部門優勝(ワヒネ)、総合優勝(ワヒネ)。
その他、NYカーネギーホールでのショーやコンペティション等に出場しています。
スポーツクラブで5年、フラスタジオで5年、講師経験
2022年6月より横浜市神奈川区でフラスタジオ「ポノ」始めました。生徒募集中!
ハワイアンフラダンスを通じて「感謝」と「愛」を発信しています☺️
私は、歴史研究家でもハワイアンでもない、ただのフラが好きな日本人なので、ハワイの歴史をしっかり語る自信はありません。
ここでは、一般的にネットや本で語られていることを、紹介させていただきます。ご容赦くださいね。
フラを踊る上で、これだけは知っておいた方がいいし、表現する上で必要な歴史のご紹介です。
ハワイの自然・文化・人をリスペクトするフラダンサーでありたい‼️
この記事ではこんなことを書いています。
- 1. そもそもフラとは
- 2. フラダンサーなら、知っておきたい「フラの歴史」を簡単に紹介
- 3. 知っておいた方が良い理由
- 4. この記事を読み終わると、自然やお花、家族などへの感謝の気持ちをしっかり意識して踊れるので、一歩上達します☺️
フラを習い始めたら、ただの運動、踊りとは違うことがわかったわ‼️
フラは、手話みたいで物語を表現していくってわかったポノ
物語を表現するにはまず、ハワイアンの文化や、歴史を知らなければ、踊れないんです。
ハワイの人々は、自然界全ての物にマナ(mana:霊的な力)が宿ると考えています。文字を持たなかったハワイの人々は神々への神聖な思いを踊りで捧げていました。
ポイント
フラは「祈り」です。
フラの歴史 始まり
その昔、ハワイ・ポリネシアには文字というものがありませんでした。
太平洋の真中の美しい島には、明るい日差しと豊かな自然があり、その自然を神にたとえ、人々は暮らし、共存していました。
文字を持たなかったハワイの人々が神への信仰の表現や、出来事を後世に伝える手段として、フラ=踊りが広まりました。
それがフラダンスの歴史のはじまりとなります。
ハワイの人々は大切なことを全て祈りに込めて伝えていました。
これは、すべてのものに精霊【マナ】が宿ると信じていて、神様・自然への感謝の気持ちと祈りを、とても大切にしていたからだと考えられます。
フラダンスの発祥の地については、ハワイやタヒチなどいくつかの説があり、はっきりしたことはわかっていません。
ハワイの人々は元々、同じポリネシア圏のタヒチやマルケサス諸島から渡ってきた、など諸説があります。
フラも各島々の踊りを元とするものですが、それがハワイ流に独特の発展を遂げ、今のような美しい踊りが確立されたそうです。
フラは踊りとして美しいだけでなく、古来、神に捧げる神聖な踊りでもありました。
先史時代のハワイでは、フラは後世のように娯楽として踊られるものではなく、宗教儀式の一部だったそうです。
神話によると、この世で初めてフラを踊ったのは、女神ラカ。
ハワイ諸島の一つ、モロカイ島のある洞窟で女神ラカが踊った踊りが、フラの起源とされています。
そのため、ラカは今もフラの守護神とみなされており、ラカを祀る祭壇を設けるフラ・ハラウ(フラの学校)も多いのです。
また、文字を持たなかった先史時代のハワイでは、フラは歴史の継承という重要な役割をも担っていました。 当時のフラはチャント(詠唱)や太鼓の音とともに踊られていましたが、その踊りはチャントの内容を体現します。 それぞれの手の動きが虹や雨、花、風に揺れるヤシの木、波の動きなどを意味し、踊り自体が一つの物語を構成しているのです。
ハワイの人々はこうしてチャントやフラに歴史を記録し、後世に伝えたというわけです。
本当のフラというのは、一般に知られているより、ずっと精神的で奥深いものとなります。
そんな理由から先史時代のハワイでは、フラは誰もが踊れる、というものではなく、選び抜かれた男女だけが踊ることのできる、特別な踊りでした。
まず、クム・フラ(フラの師範)が、若い男女の中から踊りの才能、容姿を元に数人を選び出します。
彼らは、女神ラカを祀る寺院に住み込み、長期間に渡って、厳しい規律にのっとって生活しながら、特訓を受けていました。
生徒は神を讃える踊り、ハワイの歴史物語を現す踊りなど、多くのの踊りを習得。そして卒業式を終了して初めて、人前で踊ることが許されるというしきたりでした。
フラ・ダンサーはまさに芸術家であり、また、文化の担い手であると言えるのは、そんな背景が影響をしています。
ハワイ王朝の成立と共にフラの衰退・禁止令の激動時代
世界で近代化・産業革命が起きる頃、英国人のジェームズ・クックを船長とする船団が、1779年にカウアイ島に上陸。
サンドイッチ諸島と名付けられたハワイも、交易の拠点として世界のと大きな関わりを持つようになりました。
多数の部族から1つの国へと統一化が進む中で、ハワイ王朝が成立しました。
アメリカから来た宣教師は、自然を崇拝する精神を表したフラを、一神教であるキリストを脅かすものと断定し、当時の女王(カメハメハ大王の妻)を通じてカメハメハ2世に禁止令を出させたのです。
「自然崇拝を意味するフラは野蛮でみだらなもの」と称し、フラやサーフィンや伝統文化を約50年間もの間(1874年にデイヴィッド・カラカウア王によって、禁止令が解かれるまで)姿を消してしまいました。
(カメハメハ3世)治世下にはハワイ語がアルファベットに変わり、口頭による伝承は後に記述や印刷技術へと発展していきました。
このときに、首都はマウイ島・ラハイナから現在のオアフ島・ホノルルに遷都しました。
そして、1848年「グレート・マヘレ法」が施行され、ハワイの土地を白人たちが入手する契機となります。
1893年、リリウオカラニ女王がアメリカ人勢力に圧されて王位から退き、ハワイ王国は終わりを迎えます。
やがてアメリカ準州となったハワイで、ハワイ人たちは行き場を失い、人々はハワイ語を捨て、ハワイ人とわかる姓さえ隠そうとするようになってしまったそうです。
当時、フラは一般的には見向きもされず、一部のハワイ人たちの間で守られていました。
フラの復活
デイヴィッド・カラカウア王(私が描きました☺️私、ハワイアンイラストレーターもやってます)
1883年、そんな悲しい状況を救ったのが
ハワイ王国第7代目の君主、デイヴィッド・カラカウア王でした。
芸術を愛し、「陽気な王様」(メリー・モナーク)とのニックネームで国民から愛されたデイヴィッド・カラカウア王は、 即位式の時にハワイ伝統の儀式を行い、この時にフラダンスのカヒコ(古典フラ)も公式の場で披露したそうです。
こうして、デイヴィッド・カラカウア王は、宣教師たちによって「俗悪な大衆文化」として虐げられていたハワイ固有の文化(フラ・サーフィンなど)の復興を確実に成し遂げていきました。
宮殿にお抱えのフラ・ダンサーを住まわせ、客を招いてはフラのパフォーマンスを楽しみ、フラを全面的にサポートし、復活の道へと歩みだしていきました。
この頃、西洋のクラシック音楽やピアノが輸入され、王族達に広がってゆき、楽曲が誕生し、ハワイに新しい音楽「ハワイアン・ミュージック」が生まれ、その音楽に合わせて踊る「新しいフラダンス」も生まれたのです。
1960年代に入りアメリカ本土で起きた、公民権運動(アフリカ系アメリカ人の人種差別を無くし完全な平等を求めた運動)の影響から、ハワイでもハワイ人としてハワイの伝統に誇りを持つ意識が、フラダンスへ向けられ始めたそうです。
そして、ようやく1970年代、失われたハワイ人の文化と誇りを取り戻そうという『ハワイアン・ルネッサンス運動』が起き、そして、時代もフラも動き始めました。
廃れかけたハワイ語を甦らそうと、ハワイ語の幼児教育も始まり、フラ人ロを増やそうと各地で競技会が行われるようになりました。
今からわずか30~35年前、ようやくフラがハワイ文化のひとつとして日の目を見るようになり、ハワイ人たちは、ハワイ人であることに自信を取り戻し始めたました。
当時のフラ・イベントでは、涙で頬を濡らしながら、誇らしげにチャンティング(詠唱)し、踊る人々も多かったそうです。
フラダンスの古典カヒコは、激動を乗り越え、1964年から開催された 「メリー・モナーク・フェスティバル」が、1971年にコンペティション(競技会)形式に変わった際に、フラダンスは現在のような区別をされている"カヒコ"と"アウ アナ"に分けられて、踊られるようになりました。
※「ハワイアン・ルネッサンス」…1972年に始まった運動。
ハワイの人々が"カヒコ"や"ハワイ語"の大切な文化を守り伝承するために、一般の人々もフラダンスを学べる様な形に変化し発展を遂げる道が出来ました。
フラは、今までの口承文化に、文字文化を取り入れるようになります。
再びカヒコ(古典フラ)が復興して、アウアナ(現代フラ)が生まれ、フラダンスは伝統舞踊として位置づけられるようになりました。
フラダンスは、激動を乗り越えてきたのです‼️
ハワイアンの文化や、歴史を知ることで、今地球上どこにいても誰でもフラが踊れるし、自由に表現することができることに、
ただただ感動しませんか?
神々への神聖な思いを持って踊りましょう☺️
それが自分の心の平和にもなり、素敵なダンサーへの近道です。